公園にいる親子によく見かける光景で、少し疑問に感じることがあります。
これは冬の家の中でも見かける共通の問題かなと思うことです。
転んだ子供
公園で遊んでいた子供が転びました。
子供は「痛い」と言いました。
近くにいた親が子供を起こしながらこう言いました。
「痛くない」
たまに見かける光景です。
ときには泣いてる子供に
「こんなの痛くないから泣かないの」
と言う親がいます。
強い子でいてほしい願望からでる言葉でしょうか。こんなことくらいで痛がってほしくないと思っているのでしょうか。
寒いんですよ
暖房を効かせた部屋に入ったとき、ドアをすぐに閉めない人がいます。
「寒いからドアをすぐに閉めて」と言うと
「うるさいなぁ。わかってるよ」なんて言い返したり。
寒いところから暖かい部屋に入った人は『暖かい』と感じるから、中の人が『寒い』と感じることがわからないようです。
言い方の問題があるかもしれないけれど、それ以前にお互いが相手の感覚を理解出来てないのかなと思います。理屈ではわかっても、自分の感覚が優先されるのかもしれません。
まあ他人の感覚はわかりませんからね。
他人の感覚はわからない
子供が転んだときに
痛いと言っている
痛がっている
泣いている
だとしたら、それは痛いのですよね。
なぜ親は「痛くない」と言うのでしょう。
どうして「痛かったね」と言ってあげないのでしょう。
『痛い』という感覚は本人が感じたことだから、ほかの人が否定できることではないはずなのに。
部屋の中の人が『寒い』と言ったら、それは寒いのですよね。
それなら文句を言ってないでドアをすぐに閉めないといけない。間違っても「部屋の中は暖かいじゃん」なんて言い返してはいけないと思うんです。その感覚は相手の感覚ではないから。
これはどうしようもないコトなのかもしれないけれど、他人の感覚はわかりにくいです。そのせいか相手の感覚を無視しなような態度をとってしまう人をたまに見ます。
痛い
寒い
頭にきた
怖い
楽しい
うれしい
こんな言葉に「そんなことないよ」と答える人を見ると、相手の人が可愛そうだなと思います。
その相手が子供だったらなおのこと。
自分の感覚を押し殺す必要はないけれど、相手の感覚を否定してはいけないんじゃないかな。なんて思うのです。
悪いことを楽しんでいるとかは話が別ですけれど。
さいごに
多様な感覚を理解するのは難しいです。
でも、理解できなくても、受け入れなければいけないときがあると思います。
特に相手が弱者なら。
感覚を否定されたり、ないがしろにされた人はどう思っているでしょう。
「痛くない」と言われた子供はかわいそうです。
私は「寒くない」と言われて悲しかったことがあります。
それ、私の感覚であって、あなたの感覚ではないのに。
それではまた。